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松本の歴史

鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代

林城(大城)跡主郭 筑摩神社拝殿 徳雲寺跡 大宮熱田神社本殿 釈迦堂の釈迦如来   鎌倉時代から、国ごとに守護がおかれ、荘園や公領には地頭が置かれました。信濃国守護は、最初は比企(ひき)氏でしたが、後に北条氏となりました。鎌倉幕府が倒れ、北条氏が滅びると、小笠原氏が守護となりました。
  小笠原氏は、はじめ井川の館(市特別史跡井川城跡)を本拠地として信濃国を治めました。ただ、信濃国守護でありながら、小笠原氏の支配地は主に松本から南信地方に限られていました。それ以外の地域は在地の有力武士(国人  こくじん)の勢力が強く、応永7年(1400)には、守護として赴任した小笠原長秀に対し、各地の国人が反抗し、長秀が守護を解任されたこともありました(大塔合戦  おおとうかっせん)。また、相続を巡る争いから、小笠原氏は内部で争いがおきて二つに分かれ、府中(松本のこと。国府が以前おかれたため、こうよばれました)と伊那をそれぞれ本拠地としました。
  戦乱が激しくなる中で、府中の小笠原氏の本拠地も、15世紀の後半には、平地の井川の館から山城である林城(県史跡)に移されています。戦国時代には、市域東部・北部などに埴原(はいばら)城、山家(やまべ)城(いずれも県史跡)などの山城が築かれています。
  戦国時代になると、甲斐(現在の山梨県)の武田氏が信濃国に攻め入ります。このときの守護は小笠原長時でした。天文17年(1548)、長時は武田晴信(信玄)と塩尻峠で戦って敗れます。天文19年(1550)、武田氏が松本に攻め込んでくると、小笠原勢は戦わずして敗走し、本拠地の林城は落城します。武田信玄は府中に入ると、それまで島立氏が守っていた深志城を本拠地としました。その後、武田氏は、織田信長との戦いに敗れ滅びますが、間もなく織田信長も本能寺の変で殺されてしまいます。
  小笠原長時の子の貞慶(さだよし)は、このとき信濃国に攻め入り、かつての領地を取り返し、深志城を本拠地とします。貞慶は城の名を松本城とし、これ以降、松本の地名が用いられるようになります。
  豊臣秀吉が天下を統一すると、小笠原氏は関東へ移され、代わって石川和正が松本にやってきました。石川和正は松本城天守(国宝)の建築を計画し、その子康長(やすなが)が松本城天守を文禄2~3年(1593~1594)にかけて築造し、乾小天守・渡櫓(わたりやぐら)、本丸、二の丸御殿も作りました。
  小笠原氏は、筑摩神社を厚く信仰し、筑摩神社本殿(国重要文化財)を造営したほか、筑摩神社銅鐘も小笠原氏によるものです。また、市特別史跡の徳雲寺は、現在の山辺地区の有力武士であった山家為頼が開創したと伝えられます。
  現在の梓川地区の有力武士であった西牧氏に関係した文化財として、国重要文化財の大宮熱田神社本殿・大宮熱田神社若宮八幡宮本殿、市重要文化財釈迦堂の釈迦如来などがあります。

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