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松本の歴史

江戸時代

松本城天守(東面) 広沢寺小笠原家墓所 戸田康長夫妻の肖像画 寛永通宝松本銭 岡宮神社本殿 水野家廟所 深志神社神輿 松本城下絵図 朱印状 西善寺紙本著色釈迦涅槃図   松本藩をおさめた藩主は、6家23代で、その時の石高は以下のとおりです。
石川氏  (1590~1613)  2代  8万石
小笠原氏(1613~1617)  2代  8万石
戸田氏  (1617~1633)  2代  7万石
松平氏  (1633~1638)  1代  7万石
堀田氏  (1638~1642)  1代  10万石
水野氏  (1642~1725)  6代  7万石
戸田氏  (1726~1871)  9代  6万石
  転封・改易などで藩主が変わるたびに所領に変化がありましたが、松本藩の石高を表現する場合は、廃藩置県まで藩主であった戸田氏の石高で代表して6万石と表現されています。小笠原氏より後は、松平氏に代表されるように、徳川家と関係の深い藩主が置かれています。
  歴代城主の治世を指定文化財を紹介しながらたどってみましょう。
  先に見てきたように、石川康長は国宝松本城の天守・乾小天守・渡櫓をつくりました。しかし、慶長18年(1613)に改易されてしまいます。
  石川氏の後に、小笠原貞慶の子の秀政が飯田から松本へやってきます。小笠原秀政は、大坂夏の陣に出陣しましたが、子の忠脩(ただなが)と共に戦死してしまいます。この二人のお墓が市特別史跡の広沢寺小笠原氏墓所で、御殿山小笠原家廟所には小笠原貞慶を含めた三人が祀られています。
  小笠原氏の後、戸田康長(やすなが)が藩主となります。康長は、徳川家康の妹の松姫を妻としており、松平の姓と葵(あおい)の紋を使うことが許されていました。市重要文化財の戸田家伝世の甲冑(かっちゅう)は、戸田康長が着用したと伝えられているものです。戸田氏は2代で松本を離れますが、のちに再度松本の藩主となります。
  戸田氏の後の松平直政は、徳川家康の孫にあたる人物でした。5年間の短い治世でしたが、松本城の辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)を作りました。また、当時の貨幣である寛永通宝の鋳造を幕府から許されています(市重要文化財寛永通宝松本銭と鋳造の許状)。
  堀田氏の治世は、堀田正盛の一代、4年間のみで、一度も松本に来たことはありませんでした。堀田正盛は3代将軍家光の老中でした。
  続く水野氏の治世は、約80年に及びました。小笠原貞慶が始めた松本城下町の整備は、水野氏の時代にほぼ終了しています。
  2代忠職(ただもと)のときには、領内のすべての田畑の検知が行われました。また、忠職は、北深志の総鎮守として歴代藩主の崇敬の厚かった岡宮神社の本殿(市重要文化財)の改築を行っています。
  3代忠直(ただなお)のときには、貞享(じょうきょう)騒動(加助騒動)とよばれる大きな百姓一揆がおこりました。これは、凶作が続いていたにもかかわらず、藩が重い年貢をかけていたため、安曇郡中萱(なかがや)村(現在の安曇野市三郷)の庄屋を務めていた多田加助を中心としておこったものです。一揆はわずか3日で鎮圧され、加助をはじめ一揆の中心となった人々が処刑されました。
  市特別史跡の水野家廟所は、忠直が造営したもので、松本藩に最初やってきた忠清(ただきよ)から5代忠幹(ただもと)までが祀られています。また、忠直は、北深志の総鎮守(ちんじゅ)の岡宮神社と、南深志の総鎮守の深志神社に神輿(みこし)を寄進しています(ともに市重要文化財)。
  5代忠幹のときには、信濃国の歴史や地理などをまとめた「信府統記」(しんぷとうき)が編さんされました。この「信府統記」は、当時のことを知る大変重要な史料となっています。
  6代忠恒(ただつね)は江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、水野氏は改易となってしまいます。
  水野氏の後、戸田氏が藩主となり、明治維新までの約140年の間、松本藩を治めました。
  初代の戸田光慈(みつちか)が藩主となって間もない享保12年(1727)には、松本城本丸御殿が全焼してしまいますが、財政力がなく再建はできず、これ以降二の丸御殿が藩政を行う場とともに藩主の居所となります。
  光慈は、治世の出発にあたって、松本城下町の詳細な絵図を作成させますが、これが市重要文化財の松本城下絵図です。
  戸田家にまつわる文化財としては、市重要文化財に指定されているものに、戸田家の全家臣の家譜である諸士出身記並びに出身記・出身帳等、将軍が領地を安堵(あんど)した朱印状及び領知目録、松竹梅と桐紋蒔絵の女乗物などがあります。また、市特別史跡の戸田家廟園(びょうえん)には、戸田康長のほか、6代光行(みつゆき)、7代光年(みつつら)、8代光庸(みつつね)の弟光領とその室が葬られています。
  松本藩最後の藩主となったのは9代光則(みつひさ)です。慶応3年(1867)の大政奉還の後、光則は朝廷側につき、戊辰戦争の際は松本藩兵が朝廷軍に加わりました。明治2年(1869)の版籍奉還により、光則は松本藩知事となります。
  光則は、政府の神道国教化の方針に従い、廃仏毀釈を積極的に行い、藩内の寺院の廃寺が徹底して行われました。この廃仏毀釈のとき、念来寺から西善寺へと運ばれた仏像などが、市重要文化財に指定されています。
  明治4年(1871)の廃藩置県のとき、松本藩は松本県となり、このとき光則は藩知事の任を解かれ、松本を離れます。

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