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国指定等文化財

松本城天守

まつもとじょうてんしゅ

  • 松本城天守閣
  • 夕映えの松本城天守
  • 大天守南面の唐破風及び千鳥破風
  • 松本城天守(東面)
  • 石落
  • 大天守西面の狭間の列
  • 西南からみる大天守
  • 大天守1階の石落及び狭間
  • 大天守一階壁残欠
  • 大天守6階の井桁梁と桔木
  • 大天守4階御座の間
  • 月見櫓内部

データ

名称
松本城天守
指定等区分
国宝
指定年月日
昭和27年3月29日
種別
建造物
所在地
丸の内4-1
所有者
国(市管理)
時代区分
安土・桃山時代~江戸時代
付加事項
  

所属カテゴリ

分類
国宝
テーマ
松本城とその城下町
地域
松本城下町周辺
分野
建造物

地図

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解説

天守・堀・土塁・郭に歴史がいきづく

松本城前史 ― 深志城の時代
  松本の地は古くは深志とよばれ、平安時代初期に上田から国府が移されてからは府中ともよばれていました。深志城の創始は、鎌倉幕府滅亡後、小笠原貞宗が信濃守護として府中に進出し井川に館を構え、支城として深志城を築いたのに始まります。その後永正元年(1504)に小笠原氏の一族島立右近貞永により平城(ひらじろ)として構築されました。
  天文19年(1550)に府中に進出した武田晴信(信玄)は、小笠原長時の本城である林大城をはじめ周辺の山城を落とすと、深志城を残して他の城はすべて破壊し、深志城を拠点としました。深志城は平地に位置し交通の要衝地でもあり、東信・北信、さらには上杉への策源地として格好の位置にあったからで、以後30年余にわたって武田氏の信濃支配の拠点となりました。

城下町と近世的城郭の建設
  天正10年(1582)、武田氏が滅亡すると小笠原貞慶(さだよし)が深志城を回復し、名を松本城と改め、その施設を充実させ、また城下町の経営にもあたりました。のち親町三町とよばれた本町・中町・東町の町筋ができたのもこの頃です。天正18年(1590)、小笠原氏が移封され、石川数正が入封すると、城郭の整備に着手し、その子の康長が天守3棟(天守・乾(いぬい)小天守・渡櫓(わたしやぐら))を築造し、本丸御殿・二の丸御殿も造られて城郭は充実しました。また町人町も家並みが整えられました。その後も歴代城主は城下町の整備を行い、水野氏の治世に完成しました。
  松本城は東西、南北約600m、南がやや狭くなった台形状をなし、外周を総堀がめぐり、二の丸には外堀が、本丸の東・南・西には内堀があり、城郭を固めています。それぞれの郭(くるわ)には、三の丸に大手桝形(ますがた)門、二の丸には太鼓門桝形、本丸には黒門桝形がそれぞれ正門としておかれました。
  本丸・二の丸・内堀・外堀は、昭和5年(1930)に旧史蹟名勝天然紀念物保存法により史跡に指定されました。昭和25年(1950)には文化財保護法により史跡に再指定され、同45年(1970)には総堀が、また平成19年(2007)には総堀土塁跡が追加指定を受けました。
  本丸御殿は享保12年(1727)に焼失し再建されませんでした。二の丸にあった古山地御殿は明治になって取り壊されました。二の丸御殿は筑摩県庁として使用されていましたが焼失し、跡地に松本地方裁判所(のち長野地方裁判所松本支部)庁舎がおかれました。昭和53年(1978)に裁判所が移転し、昭和55年~59年(1980~1984)に二の丸御殿跡の発掘を中心とする総合調査が行われ、史跡公園として平面標示による復元がなされています。

現存する最古の五重天守
  松本城天守は明治維新の旧物破壊の風潮の中で売却され破壊の危機にさらされましたが、市川量造らの尽力により破壊を免れました。その見識の高さは特筆に値します。松本城の天守5棟が国宝保存法により国宝に指定されたのは昭和11年(1936)のことで、昭和25年(1950)には文化財保護法により重要文化財となり、同27年(1952)に国宝に指定され今日に至っています。わが国の重要文化財に指定されている城郭建築の中で国宝に指定されているのは、松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城のみです。現存する最古の天守は福井県の丸岡城ですが、五重天守としては松本城が最古です。
  天守群の築造は二期に分かれ、建築・構造に違いがあります。中央の天守と北端の乾小天守、それを渡櫓で連結した3棟が文禄2~3年(1593~94)にかけて石川数正、康長父子により築造されました。一方天守の南東に付設されている辰巳附櫓(たつみつけやぐら)と月見櫓は松平直政により寛永10~15年(1633~1638)に築造されたものです。

天守群の構造
  天守内部は6階ですが、3階が二重屋根の小屋裏になっているため、外部は5重です。城地は低湿地で地盤が弱いため、天守台の石垣は緩やかな野面積(のづらづみ)で、内部は16本の土台支持柱と貫(ぬき)を櫓に組んで土台を支え土で埋めています。また堀側の根石は筏地形(いかだぢぎょう)を施し沈下を防ぐ工夫がなされています。
  天守は各階母屋柱(入側柱)と庇(ひさし)柱(側柱)を立て、1・2階と3・4階は母屋柱・庇柱を通し柱とし、5・6階は隅の柱を通し柱としています。1階から4階は母屋内に柱がありますが、5・6階にはなく、全て間仕切のない1室で、外壁の内側は真壁となり、柱や構造材は全て露出しています。屋根は本瓦葺、1軒で、五重は入母屋(いりもや)造、四重は南と北に唐破風(からはふ)を、三重は東と西に大きな千鳥破風を、二重は南に大きな千鳥破風を設けています。破風は白漆塗、狐格子は黒漆塗。壁は下約3分の2が黒漆塗の下見板(したみいた)張、上部は白漆喰(しっくい)です。各重下見板部分には矢狭間(はざま)、鉄砲狭間が1間に1つずつあります。窓は初重は南、西面に塗籠(ぬりごめ)縦格子の窓、二重以上は各重のほぼ中央に突上げ、または引戸の窓を配しています。特に二重南面の五連の竪格子窓は無骨さの中にも美を感じさせるものです。
  乾小天守は入母屋造、内部4階、屋根は3重。天守と乾小天守を連結する渡櫓は内部2階、1階中央1段下が天守大手口です。辰巳附櫓は入母屋造で、内部2階、屋根入母屋。月見櫓は内部1階、地下1階で東は寄棟造 、西は辰巳附櫓に接続します。櫓の三方には高欄をもつ回縁がめぐっています。

  以上の5棟からなる天守群は、連結複合式の複雑な構成と絶妙な均衡美をもちます。その名のとおり、国の宝であることはもちろんですが、私たちのまちのシンボルであり、松本のたからの代表格といえます。

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