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国指定等文化財

弘法山古墳

こうぼうやまこふん

  • 墳頂からアルプスをのぞむ
  • 墳頂からアルプスをのぞむ
  • 北西上空から望む
  • 竪穴式石室状の礫郭

データ

名称
弘法山古墳
指定等区分
国史跡
指定年月日
昭和51年2月20日
種別
遺跡
所在地
並柳2丁目1000ほか
所有者
松本市
時代区分
古墳時代
付加事項
  

所属カテゴリ

分類
史跡・名勝・天然記念物
テーマ
松本城ができるまで
地域
松本南部
分野
史跡

地図

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解説

科野の古代史を書き直す

  前方後方墳としての弘法山古墳が発見されたのは昭和49年(1974)のことです。出川から中山の和泉に抜ける小さな峠が中山丘陵の北にありますが、その北の山を地元では弘法山とよんでいます。山の先端部に古墳のあることは早くから知られており、第2次世界大戦の末期、その墳丘部には高射機関銃が据えられました。この古墳は、中山古墳群の中の北尾根グループに含まれていて、昭和48年刊行の『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』の古墳分布図には、「弘法山古墳」として位置が示されています。しかし、本格的な調査を受けたことはなく、文化財保護法施行後も山上立地で開発の危険は少なく、しかもすでに破壊されてしまった古墳と認識されていました。昭和49年に松商学園が弘法山を買収し、学校用地造成に先立っての発掘調査を開始したところ、これが単なる円墳ではなく、今まで松本平にはないとされてきた前方後円墳ではなかろうかとの疑いが生じ、協議の結果、保存を前提として松本市教育委員会が調査を継続担当することとなりました。再々度にわたる測量の結果、古墳は前方後円墳ではなく、当時にあっては県下唯一の前方後方墳であり、続いておこなわれた主体部の発掘で、河原石で築かれた石室が現れ、石室上から出土した多量の土器と完存していた副葬品のセットから長野県のみならず東日本最古の古墳であることが判明し、一躍学会の注目を浴びることとなりました。ほかに例を見ないスピードで昭和51年には史跡指定を受けましたが、このことからも弘法山古墳のもつ重要性をうかがうことができます。
  改めて古墳の形状・規模を述べると、古墳は比高60mの丘陵突端に前方部を北に向けて築造されています。墳頂に立っての視界は東から北、そして西方と200度以上に広がり、遠く北アルプスの連峰が一望できます。
  まさに国見ヶ丘で、被葬者がこのような景勝の地を選んだのは故なきこととは思えません。古墳が望んでいる当時の推定水田面積は北に70ha、西に40haとずば抜けて広いです。
  前方後方形をとる墳丘の規模は全長66m、後方部の巾47m、長さ41m、前方部巾22m、長さ25m、墳高は後方部7.15m、前方部3.5mで3.6mの比高があります。外表施設ですが、埴輪の樹立はありません。葺石もわずかに見られる程度です。
  主体部は後方部中央にあって主軸を直行しています。機関銃座を設置した際の大きな穴が3つ、後方部に穿たれていましたが、いずれも主体部を外れていたのは幸いというほかありません。石室を構築している石は板石ではなく、松本平の各水系が産する河原石だけが用いられています。河原石のため、垂直に積み上げることは難しく、外開きで、壁の外側に厚い控え積みをおこなっています。竪穴式石室状の礫槨(れきかく)というべきものです。石室内法の長さは5.0m、巾は1.3m。深さは93㎝を計ります。石室内には黒土が堅く填っており天井石は見当たりませんでした。
  調査所見として、棺は存在しないとされましたがやはり木棺を想定すべきでしょう。但し、割り竹型木棺ではなく、底が平らな棺を考えたい。
  本格的な前方後方墳研究が始まったのは昭和30年代に入ってからで、弘法山古墳が調査されていたころは110基が知られていただけでしたが、それが今は450基を越えています。前方後円墳が古墳の主座を確保する段階になると前方後方墳は一ランク下に位置づけされてしまいますが、弥生墳丘墓が古墳に変貌する発生期にあっては同等の位置にあります。ある日突然に巨大なマウンドを持つ古墳が国見ヶ丘に出現する。松本平にクニが成立し、王権が委譲を見たときで、これからは弘法山古墳抜きで科野(しなの)の古代、ひいては東日本の古代史を考察することはできません。

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